いつも限界に近い

しがないバンドマンの随筆

 ネットサーフィンをしていると、いろいろな事象に対して、いろいろな人がいろいろな意見を語っているのを見かける。そんなページをぼんやりと読んでいると、先日兄と「誰が言うかではなく何を言っているか」で判断できれば理想だけどね、といった話をしたことを思い出した。

 しかしよくよく考えてみれば、本当に理想的なのかというと、それが良いことのように錯覚していただけで、別にそうでもないように思った。「言っていることが正しいのであれば、誰が言っているかは関係ない」これは確かに良いことのように感じるが、結局それは、"その話者"が言っていることだから、そう判断できるだけなのだろうと。

 例えば、自分が信頼している誰かの言っていることが、自分の考えとは異なることだとする。でもその場合「もしかするとそうなのかもしれない」という受け止め方が容易だ。その手順を踏むことで、最終的に「やはり自分の考えが正しい」と判断するか「自分の考え方が間違いだった」と判断することができる。

 しかし、自分が信頼できない人物が言っていることが、自分の考えと異なる場合、「やはりこいつは間違ったことを言っている」と受け止めることが大半ではないだろうか。そうすると、その意見の是非を考えることすらほとんどしない。無理やりしようとしても、そのバイアスを取り除くことはとても難しく、本当に正常な判断ができているのか怪しい。

 逆にその人物が自分と一致した考えを言っていた場合は、「自分は誰が言っているかで判断していないから、人の好き嫌いで内容の是非を判断していない」と錯覚しやすい。結局のところ、あくまで自分の考えと一致しているかどうかになってしまっている。

 この「自分の考えと一致」というのは、「納得するかどうか」も含まれる。最初は自分の意見と一致していないと思っていても、納得がいく内容であれば信じるという場面は多くある。しかし結局のところ、それは自分の中の正しいことと間違いであることと、話者のそれとが一致しているから起こることなので、少しニュアンスが違うかもしれないが、"根底的に同じ意見を持っている"といったようなことだと思う。

 同時に「こいつのことは嫌いだけどもしかしたら正しいかも?」と思う背景には、多くの場合、自分の考えが正しいかどうかはっきりとは分からない、という状況もセットになっているはず。だから「納得さえすれば」が入り込む余地がある。

 「正しい」と確信している自分の考えの前に、嫌いな人間の反対意見は入り込む余地がない。一応聞いたとしても、それは本当のところ聞いてない。好きな人間の反対意見なら、結果はどうあれ一応ちゃんと聞いてみる。嫌いな人間が賛成していても「自分は誰が言うかで判断していない」と自分を納得させ、好きな人間が賛成しているなら「やはりそうだった」と、疑いもせず確信を強める。

 実際その話をしたときも「実際は難しいし、結局のところ最後は自分で判断しているだけだよね」という結論に落ち着いた。順序だてて考えると、上述のようなことなのだろうなと思う。

 ずいぶん長い前置きを終え本題「誰が言うかではなく何を言っているか」で判断することは、必ずしも"良いこと"と言えないのではないか。

 例えばすべての人間にそれができたとする。するとある意見に対して、当然それぞれの価値観によって是非が異なってくる。ここで起こる相違は、通常とは異なり根底的に違うものになるので、基本的に相容れない。たいていの場合は二極化し、多数と少数に分かれる。

 普通の状況であれば、ここで専門家などが出てくるが「誰が言うかではなく何を言っているか」で判断しているので、つまるところ「自分が納得し同意できるかどうか」しか指標がない。そうなると、たとえ専門家が「少数の意見のほうが正しい」といくら主張しようが関係ない。

 ここでは専門家だろうが素人だろうが、1つの意見の価値は同じだ。「専門家ならみんなが納得できる答えを出せるのではないか」という気もしたが、専門家というバイアスがかかっているからこそ「この人が言うのであれば正しいのかも」という余地が生まれるので、結局意見は割れたままだろう。

 ここで言う専門家は「客観的に正しい判断ができるとされる人物」と言い換えてもいい。現実はさておき、たとえそうであったとしても、少し考えるだけでこんなに大きな問題が出てきてしまう。まぁそもそも、必ずしも二極化するばかりでもないとは思うが、結局同じ問題が生じてくるのは間違いない。

 もう少し考えてみたが、『「誰が言うかではなく何を言っているか」で判断することは、必ずしも"良いこと"と言えないのではないか、を正しいと判断する俺』が、ああ言えばこう言ってくるのでもうやめた。こいつ何を言っても「いやでもさ~」で返してくる。民主主義の弱点とか政治の話にも絡んできそうで、続けると無限地獄に陥りそうだ。

 そういうわけで「誰が言うか」も大事だよな~ということだと思います、はい。まぁそれも含めて、結局最後は自分で判断するしかないのだけれど。

おたふく

 日本では一般的に、他人と政治の話は避ける傾向にある。日本人全体が自分と同じとは思わないが、自分はそうした話をするのに向いていないなと感じる。

 基本的に人は自分が信じたいことを信じるし、似た思想を持った人と集まろうとするし、親近感を感じる。そして、多くの場合自分が正しいと思っており、自分と思想が違う人間は「わかっていない」と考えている。俺もそうなのだろうなと思う。

 誰だって自分は概ね正しいだろうと考えているし、そう信じたい。自分の思想が実は偏ったものであるとはあまり思わない。自分はある程度客観的に見て、物事を判断しているのだと。しかし、ほとんどの人はどこかしら偏っている。むしろある程度偏るからこそ、どこを支持するとか批判するとかができるとも言える。

 そして思想の違う者同士が議論するとどうなるかというと、たいていは衝突するか、一方的な投げかけになる。自分が正しいと思っているのだから、なんとかして相手を説き伏せようとする。相手の意見を尊重しているつもりでも、実のところ「わかっていないからそう考えているのだ」と、ほとんど耳に入っていなかったりする。

 加えて厄介なのは、おそらくはどちらも間違いではないことなのだと思う。だから、自分は正しいとより信じることができ、それゆえに人に対して「間違っている」だとか「お前のようなやつがいるから駄目なんだ」とか言えてしまう。普段は「いろんな人がいていいよね」といったように話している人でも、この状態では高圧的になりやすい。

 話者がどんな生活をして、どんな人たちと関わり、どこでどんな情報を得ているのか、その本人にしかわからない様々な要因を経て出てくる思想や行動に対し、それを言ってしまったら、もうただの水掛け論にしかならない。そして、政治の話はそうなりやすい。

 そして、どの政党もどんな思想も叩けばホコリが出るし弱点がある。そのため、いいところの提示ではなく、悪いところのぶつけ合いにもなりやすい。そしてその悪いところを持つ政党を支持する人間に対して、お互いに自分が正しいと思っているので、お互いに怒りや苛立ちを覚えたりする。お前はこんな悪魔たちを支持するのかと、お前はこんな悪魔たちがリーダーになったら恐ろしくないのかと。その結果、相手を傷つけるような言葉、馬鹿にするような言葉を発してしまったりしやすくなる。

 そのあたりの背景があって、先人たちも様々なトラブルに見舞われ、タブーのような空気が作られたのだろうか。別にどちらも嘘をついているつもりはないだろう。自分が得た本当だと信じる情報をもと話すのだから、むしろ親切心みたいなものかもしれない。そもそもどちらも間違いではない場合がほとんどなので(理想や主義が違うのだから当然そうなる)、水掛け論以上のものになりづらいのだと思う。そもそも議論慣れしていないことも、そうなりやすい原因だろうと思う。

 自分が信じたいこと以外のことを信じることや、間違っていると考えていたことを、「実はそれも一つの正解なのかもしれない」と受け入れることは本当に難しい。そしていつだって、人は自分が「実はそれも一つの正解なのかもしれない」と"受け入れさせる"ほうだと思っている。俺も無意識的にはそう思っているのだろうな。

 最近身近な例で言えば、新型コロナウイルスのワクチン接種に関しても、推奨派と反対派がいるが、おそらくお互いに「わかっていない」と考えているだろう。そしてお互いに「お前みたいなやつがいるから駄目なんだ」と、「なぜこれだけ言ってもわからないのだ」と、お互いに自分が正しいと信じているし、自分こそが"気づいている者"なのだと信じている。

 しかし、自分が正しいと信じるのも当然だ。そうしなければ人は何も行動を起こせなくなるからだ。だから、自分が正しいと信じること自体は何もおかしなことではない。しかし、それがありあまって行き過ぎた言動をしてしまうことのないよう、気を付けるべきだとは思う。

 俺は人の顔色をうかがって生きてきたので、人の怒りや苛立ちに敏感だと思っている。そして俺自身も、気の長いふりをするのは得意だけど、気が短いほうだと思う。だから、何かしらの議論をしていて相手の苛立ちを察知すると、もうほぼ「うん、そうかもね」みたいなことしか言えなくなる。自分まで苛立ち始めたら、ただの口喧嘩になってしまうから、なんとかそれを避けようとする。何より、相手の怒りや苛立ちに触れることに極端におびえる。

 そして、政治がからむ話はそうなりやすいので、俺は向いていないだろうなと感じる。もちろん自分が先に苛立ち始める場合もあるだろう。しかし自分でそれに気づいたとき、非常に後ろ暗く、恥ずかしい気持ちになる。直接的でない言い方で、相手の思想を探り合うようなやり取りも嫌いだ。とにかく、それらにまつわる感情の動きが非常に大きなストレスになる。

 積極的に参加したい人からすれば、俺のようなやつには苛立つだろうなと思う。それこそ「お前のようなやつがいるから」だ。怯えて議論を避けてばかりでは何も良くならないぞと。

 そのとおりだと思う。だからせめて、自分が気づく範囲では、できるだけ偏りがないよう、気になったことは多少調べるなどしてはいる。でも、偏りは生じていると思う。そして自分の思考を読み解くとその偏り見えてくるので、もはや何が正しいのか、信じるべきなのか、わからなくなるという部分もある。

 しかし、そういった背景を何も知らずに、「政治のことはよくわからない」とだけ聞けば、苛立つ人も、馬鹿にする人もいるだろう。しかし、考えていることやその背景を細かく説明するのは難しい。人を尊重するには、そこに至る背景を読み取る想像力も必要だなと思う。

 仮に本当に何も考えていないからわからないのだとしても、その人にとってそのジャンルの優先度が低いというだけに過ぎない。もちろん、政治はすべてのことに関わるといっても過言ではないが、自分のために、世のため人のために、やったほうがいいこと、考えたほうがいいこと、やらないほうがいいのにやってしまうことなど、誰にでも、いくらでもあるのだ。それらのこと持ち出して、揚げ足の取り合いになってしまえばおしまいだ。

 俺はほぼ無意識的に、テレビから得られる情報だけを信じている人を、どこか馬鹿にしているように思う。「ネットにこそ真実はある」とまでは思わないが、情報の母数が違いすぎると考えている。しかしこれも偏りで、結局のところ目に留まりやすい位置にある、手の届きやすい位置にある情報を信じているだけなのだ。だから、人から話を聞くときも、「その人の目に留まりやすい位置にある、手の届きやすい位置にある情報がそれなのだな」としか思わないし、自分が話をする場合も、その前提でしている。

 であるにもかかわらず、無意識的にどこか馬鹿にしているのだ。これはさすがに自分だけだとは思えない。誰にだってそういったところがあるはずだ。それは自分こそが正しいと、自分こそが気づいている側なのだと信じているからだ。

 いろいろな場所から情報を取り入れれば偏らないかというと、そういうわけでもない。結局「テレビではこう言っているけど、俺がネットで調べたところこうだったから、テレビの言っていることは間違っている」か、「ネットではこう書いてあったけど、俺がテレビで聞いたところこうだったから、ネットで書いてあることは間違っている」となるだけだ。

 必ずしも調べれば、多角的な情報が多くなれば真実がわかるというわけではない(そもそもどれも正しい場合がある)。人は自分の思想を肯定するものを受け入れやすくできている。そのため、調べれば調べるほどに、より濃く染まってしまうこともある。

 もはや正否を放り投げているとも言えるかもしれない。ここまであれもこれも偏りだと言い始めたら、では自分の意思とは何であるか、というところにまで行ってしまう。だから結局、自分の信じていることを信じるしかない。ただ、相手もそうなのだということは理解しなければならない。

 嘘やデマを信じている場合もあるかもしれない。しかし、結局それも同じことだ。自分の信じるほうが嘘やデマでないと本当に言い切れるだろうか。相手もそうなのだ。「嘘やデマを信じているから、教えてあげなきゃ」とお互いに思っているかもしれない。だから絶対に、どれだけ自分が正しいと確信していたとしても、馬鹿にしてはいけない。

 ソースの有無や、その信頼性も大きくからんでくると思う。しかし、いつどこで何を見てそう信じるに至ったかを探し出すのもなかなか難しい。加えて、書籍になっていれば本当か、国の代表者が言えば本当か、専門家が言えば本当か、やはりそれもわからない。もう何度目だろうか、結局自分の信じていることを信じるしかない。

余暇ある故に 追記

 俺は結構原理主義的というか、「かくあらねばならぬ」をいろいろなものに対して思っている。ただ、「そうは言っても現実的にはこうだよね」という対処をいつもしているので、はたから見てもあまりそういう人間には見えないのではないかなと思う。

 一番よくあらわれるのは、「音楽は聴くものだ」という考え。そりゃそうだろうと思うだろうが、音楽は広い目で見ると結構視覚的だ。実のところ、聴いているようで観ている場面は意外と多い。

 たいていのバンドがライブをやるが、あれは意識のだいたい半分かもしくはそれ以上が、聴いているのではなく観ているのではないだろうか。曲や歌詞や音の良しあしは、演者の見た目やパフォーマンスや照明などでずいぶん印象が変わる。見た目がかっこよかったり、動きが派手だったりすると、なんとなく音楽も良い気がしてくる。PV等も同じことが言える。

 これは当たり前のことだし、当然やる側もそこに力を入れたほうが有利だと理解してやっている。音楽活動で収入を得ようと考えているならなおさらだ。むしろ率先してやるべきことの一つ。しかもこれらは、金銭や手間が多少かかったとしても、すぐにやれることだし損にならない。音楽に力を入れるだけでそのあたりのことに注視しない人は、間違いなく不利だと言える。

 しかし俺の場合、これらは「現実的にはこうだよね。こうすべきだよね」という部分であって、本当はどうでもいいと思っている。あくまでこれは俺の中のことなので、誰もがこう考えるべきだとかはみじんも思わないし、むしろやるべきことをしっかりとやっていて、本当に素晴らしいことだと思う。しかし、いざ自分が実践するとなると、なんとなく気分が悪くなってしまう。

 「音楽の良しあしに、そのほかの情報が影響を及ぼしてほしくない」という考えが、自分の根底にあるのだと思う。前述の例などによって、本来されるべき評価を不当に上げているように感じてしまう。早い話が、「ズルしている」「不純である」ということだ。

 PVに可愛い女の子が出てくるほうが評価は上がるし、SNSにカッコいい、可愛い写真をあげたほうがフォロワーは増える。しかし、俺は心のどこかでそれらに気持ち悪さを感じてしまう。見るだけならどうでもいいが、いざ自分がやるとなるともやもやとする。

 しかし、そんな外的要因をすべて排除した絶対値的な音楽の評価なんて、現実的には不可能だ。それに、美術と欲望は切り離せないものであるように、やはりいろいろな要因が「良い」と感じる中に入ってしまうのだ。そしてそれは、やる側なら狙うべきことだ。そう感じてもらうことこそ重要だというのも間違いない。聴く側、観る側のことを考えるのであれば、それらも含めてクオリティだ。良いものを更に良いと感じられるものにする、またその機会を提供する、それこそ本当に目指すところではなかろうか。

 とはいえ、しかし、けれども、となってしまうのが困ったところ。そのループをずっと繰り返している。ひとまず、反射的に感じる不快感は制御できないのであきらめた。そう感じるのは寛大さに欠く気もするし、実はそれこそ大切にしなければならないもののような気もする。音楽の定義が狭いのではないかという気もするし、そうやって不快感に引っ張られることこそ不当な評価の要因だという気もする。

 加えて、その不快感を感じるかどうかも、どういう作品かによる。なんというか、音楽をさらに昇華させる内容ものは好きなのだが、別の要素を添加するタイプのものはあまり好きではないのだろう。俺が感じる不快感の本質の部分は、ここに隠れているのだろうと思う。

 なんにせよ、音楽で収入を得たいなら「四の五の言わずにやれることを全部やれ」なのは間違いない。逆に言えば、そうでない場合は無理してやる必要はない。そしてその分のリソースをすべて音楽に注ぎ込むことでこそ、素晴らしい作品が……いや……しかし……でも……だって……。これこそ時間の無駄だろうか?

 

 

 記事をアップしてから読み返していると、なんか違うなーと思ったので少し考えてみたところ、なんとなくその違和感の正体が分かってきた。

 まず、ライブの良さと曲の良さはイコールではなく、またそれらは一つひとつが作品として独立している。「音楽は聴くものだ」ではなく「曲は聴くものだ」で、「ライブは観て聴くものだ」だ。そして「音楽」はそれら全体を指す。PV等に関しても同じだ。

 あと、不快感の正体はおそらく性欲だ。いきなりフロイトみたいなことを言い始めたが、どうやら間違いない。少なくとも、原理主義だとか、「音楽の良しあしに、そのほかの情報が影響を及ぼしてほしくない」だとか、そんな高尚なものではなかった。まぁ俺が原理主義者的であること自体は間違いないが。

 細かいことは省くが、昔いろいろあったからか、俺は直接的ではない方法で性欲を刺激するものに対してどこか不快感を覚える傾向がある。加えて、つまりそれはむっつりスケベでるのではないかという説も出てきた。

 例えば可愛い女の子が出てくるPVなんかは、直接的でない方法で性欲が刺激されるコンテンツであるが、それは「うひょひょ可愛いのう」と感じることが評価につながるというよりも、もっと本能的な、反射的なものだと思う。例えば出てくる女の子や男の子が可愛いかったりかっこよかったりするものと、そうでないものを比較すると、それ自体が演出である場合を除いて、たいていは前者のほうが評価される。それは観た人が考えた結果ではなくて、感じた結果だ。

 おそらくは、それが下駄だと感じる部分だ。そもそも可愛い可愛くないと性欲が刺激されるかどうかは別でしょと言われたら瓦解するのだが、俺はフロイトが好きなのでひとまずそこには目をつぶる。そういう意味では、性欲が影響するなんてことはあって当然のものとして認めていると言ってもいい。

 これこそが不快感の正体だろう。別に商業音楽が好きじゃないわけでもない。エロ本も読むし下ネタも好きだが、直接的にその作品の内容とは関係のない部分で性欲を刺激するコンテンツは嫌いなのだ。それが添加されていると不快感を感じてしまうのだ。正しくは、「音楽の良しあしに、性欲が影響を及ぼしてほしくない」だった。

 いや正体が分かったなぁと思ったところで、前述のとおりむっつりスケベ説が浮上してきた。つまり俺は、誰も気にしないような部分で性欲が刺激され(自覚する程に)、刺激されるがゆえに不快感を感じているということだからだ。書かなきゃよかったこんな話。

天才バカボン

 夢を見た。

 俺は小学校高学年くらいで、四つ上の兄(夢の中だけではなく実際に存在する)と一緒に親戚か誰かの家に遊びに来ていた。その家はとてつもなく大きくて、庭が小学校のグラウンドくらいある。どういう話の流れだか、そこに25ⅿプールの半分くらいのサイズのプールを作ろうという話になった。

 俺はタイルやパイプなどの部品を集めてきて、兄が穴を掘り、二人で部品を組み立てたりタイルをはったりして、しばらくすると完成した。そんなんで完成するわけないのだが、夢の中なので無事完成した。親戚のおじさんやおばさん、子供たちもいたが、なぜか二人だけで作業していた。

 出来上がったばかりのプールで、親戚の子供たちが遊び始める。当然自分も小学生であるから、一緒になって遊んだ。そしていつの間にか夕方になり、その日はお開きとなった。

 後日、なぜだか俺一人でその家に居た。すると、親戚が言うにはどうもプールの調子が悪いらしい。作った手前、修理をすることになった。道具や予備の部品もあったので、少し手こずりながらも一人で修理を終わらせた。

 すると、みんな口々に「君の兄が作ったプールは素晴らしい」と言った。そして、「きっと修理も、君よりもっと手際よくやっただろう」とも。俺だって一生懸命にやったのにと思い、またそう言ったが、ほとんど相手にされなかった。

 目が覚めてから、いろいろなことを思い出した。

 俺は17歳で家を出るまで、常に四つ上の兄と比較され続けて育ってきた。兄の誕生日は5月で、俺は12月なので、4年と7カ月の年齢差がある兄とだ。でも、すべてにおいて比較され、そして直接的でないにしろ「お前は劣っている」と言われ続けていたかというと、必ずしもそうではなかったのだと思う。ただ、俺の耳には入らなかったのだろう。気持ちと受け取る言葉の意味を切り離して考えることなど、当時の俺にはとてもできなかった。

 ある時、それは勉強だった。ある時、それは運動能力だった。ある時、それは芸術だった。兄は俺の上位互換だった。生まれてからの経過時間が同じタイミングで、もしかしたら優れている部分があったのかもしれない。しかし、常に劣等感にさらされていた俺にそんな部分は見えなくなっていたし、何より、努力したり頑張ることに対してとにかく虚しさを感じていた。

 何をやったところで、俺個人で、単体で、身近な誰かに評価されることなどないのだと感じていた。俺の記憶の中にはないので想像でしかないが、おそらく評価されたこともあったのではないかと思う。しかし、それは記憶に残らないほどちっぽけなものに感じたのだろう。 兄のことは好きだったし尊敬していた。だから嫉妬に駆られて恨んだり憎んだりしたことはないし、そんなことはお門違いだ。しかし、強い劣等感はどれだけ消したくても消えることがなかった。

 それらが体験や記憶から性格に変化したころには、もはや兄との比較云々ではなく、俺はとにかく人より劣っていて、誰からも評価されず、認められず、"嘘"や"嫌々ながらの気遣い”の中でしか生きていけないように感じていた。むしろ、非難され、蔑まれることこそ、自分に与えられてしかるべき評価なのだとも思っていた。

 ある時、母に対して「兄と違って出来損ないでごめん」と言ったことがある。俺は、そんなことないと答えてほしくて、俺が言ったことを否定してほしくてそう言った。母は腹を立てながら「そうだ」と言った。

 母は腹を立てていた。だから、思ってもないようなことを言ってしまったのだと、自分に言い聞かせた。そんなことを言われたら、そんなふうに人を試すようなことをされたら不快になるというのは分かる。でも、いつにも増して虚しい気持ちだけはどうやっても制御できず、一人部屋にこもって泣いた。それまでも、自分は必要のない人間なのだろうと思っていたが、その思いは一層強くなり、ほぼ確信に変わった。

 ある時、学校の休み時間にトイレに行こうと廊下を歩いていると、突然首の後ろ側に生暖かい液体がかかったような感覚がした。とっさに右手で触ると、べたっとしていて、それが何かすぐには分からなかった。後ろを振り返ると、少し振り返ってニヤニヤと笑いながら歩いて行く二人組がいる。

 理解した瞬間、頭が真っ白になった。すれ違いざまに唾を吐きかけられたのだ。体が完全に固まってしまい、その場に立ち尽くした。見ず知らずの、学年が同じなのか違うのかもわからない人だった。ぶつかったわけでもないし、その理由など分からない。おそらく、「なんとなく雰囲気が気持ち悪いやつだったから」という程度のものだろう。

 しばらくして我に返ったとき、ひどく悲しかったが、不思議と怒りはあまりわかなかった。「俺のようなやつなのだから、仕方ない」と納得していた。自分はそういう扱いを受けてしかるべき人間なのだからと。罪があるから、罰を受けるのだと。

 俺の10代前半あたり記憶は、たいていこういったエピソードで構築されている。思い出せないのではなく、無意識に封印しているものもたくさんあるのだろう。しかし、自力で思い出せるものに関しては、毎日フラッシュバックする。毎日欠かさずフラッシュバックすることで、その記憶は過去の記憶ではなく、新鮮な記憶に上書きされる。そのため、一生忘れることはできないだろうと思う。

 そして年を追うごとに、"必要のない人間"から、"死ぬべき人間"に思考は変わっていった。10代半ばくらいだろうか、とにかくきっかけを探していた。あと一つの後押しが欲しかった。それは何でもよかった。「きょう誰かに怒られたら」「きょうガムを踏んだら」「きょう誰かが俺を笑ったら」とにかく何でもよかったが、数日に1回、その日を決めていた。

 結果的に俺は生きている。「きょう誰かに怒られたら」と思った日は、怒られないよう気を付けた。「きょうガムを踏んだら」と思った日は、足元をよく見て歩いた。「きょう誰かが俺を笑ったら」と思った日は、できるだけ人に会わないようにした(引きこもっている時期だったので、それは簡単だった)。

 死にたくなかったのではなく、それを超える運命みたいなものを求めていた。「自分は努力したがどうにもならなかった」という、"仕方なさ"を求めていた。とにかく自暴自棄になっていて、結果的に生きるとか死ぬとかはどうでもよく、仕方ないと納得できることなら何でもよかった。当然それは自分の中だけの基準で、他人からすれば、それこそ死ぬほどどうでもいいようなことばかりだったろうと思う。

 良くないことを考えている、しようとしていると思っていたのだろう。だから、仕方ない状況を探していたのだ。それを運命だと受け入れる準備をしていた。多少の恐怖はあったが、いまより楽になりたいと願う気持ちも本当だったし、誰だってより楽なほうへ行きたいと考えるのだから、それもまた仕方ないことだ。

 しかしある時から、死を強く恐怖するようになった。いつ頃から、何がきっかけでそうなったのかは思い出せない。おそらく、俺でもそう感じざるを得ないような、認められた、肯定されたと感じるような体験が、あるいはその複合的な体験があったのだと思う。しかしそれは、いつも身近にある、いざとなった隠れられる場所を取り上げられたような感覚だった。いつでも、仕方ない状況にさえ陥れば安心を与えてくれるはずだった場所が、恐怖を乗り越えなければたどり着けない場所になってしまった。

 それがきっかけとなり家を出た。両親は幼少期に離婚していたので、正確には母と継夫のいる家をだ。恐怖のあまり生きるしかなくなってしまった以上は、それは足を引っ張る場所でしかないと確信していたからだ。

 少しの間父の家に世話になり、その後一人暮らしをしながら高校へ通った。兄も早くに家を出て、一人暮らしをしながら高校へ通っていたので、その前例があり、保護者の説得はそう難しくなかった。

 生まれて初めて、自由になった気がした。解放された気がした。家は帰りたくない場所ではなくなったし、家の外も、俺を非難し蔑む人が無限にいる場所ではなくなった。俺は初めて、一人になれるという安息を手にできた。父には家賃や生活費を出してもらっていたので、まったく自立できてはいなかったが、その環境の変化は間違いなく俺に大きな影響を与えた。

 初めての一人暮らしではあったが、まじめに毎日起きて学校へ行っていたし、晩飯もちゃんと作って食べていた。いま思うと、大学生のころよりもしっかりしていた気がする。転校先で友人もでき、17歳になって初めて、普通の学校生活を卒業までの1年間だけ過ごすことができた。中学生活は引きこもっていたので、勉強したこと以外何もない。

 

 いまにして思うと、少しのズレのようなものがたくさん積み重なってしまっていたのだろうなと感じる。冒頭のずっと劣等感を感じてきていたエピソードも、数あるズレのうちの一つでしかない。いろいろなことが重なって、俺は自暴自棄になり、諦めるようになり、仕方ないと思える状況を探すようになった。

 俺自身も含めて、別に誰も悪くない。たまたまいろんなタイミングや状況が悪かっただけだ。いまにして思えば、そりゃ四つ半年上の兄と比較したら劣ってるに決まっているし、努力する前から比較されることに怯えていれば、そりゃやる気もなくなる。でも、別にその比較にも悪意はなかったのだろう。誰もが相対的評価にさらされているのだから、自分だって他者に対してそうしてしまうのは当たり前だ。

 何よりも、自分自身がそうしていたのだ。常に自分より優れている人間を探し、勝手に劣等感を感じていた。この分野ではAさんのほうが、この分野ではBさんのほうが優れている、だから自分は何をしても人より劣っていると。

 完全に考えすぎだった。そもそも比較してどうなるという話なのだが、それは比較され続けた環境に居続ければ、まぁ自分でも比較するようになるだろうというのは想像に難くない。本当は優劣など競技種目の中だけでやればいい話で、そこ以外で頭がいいとか悪いとか、運動できるできないとか、感性がどうのこうのとかは、世間話や与太話の範疇であって、それで真剣に思い悩む必要はまったくない。一晩で忘れてしまっていいものだ。

 何がどうあったって、自分ができることを自分のできる範囲でやるしかないし、それ以上はできない。劣等感を感じることもあるだろうし、穴があったら入りたいと思うこともあるだろう。ただ、だからって何もいますぐに死ぬこたない。生きている理由なんて、「死ぬのちょっと怖いかも」だけで十分だし、そもそも本当は理由なんてなくたっていいのだ。

 ただそれも、いまだから考えられることだ。それに、"死んだほうが楽"が解決されたわけではない。生きていく理由云々は、あくまで"生きていたい"や"死にたくない"が根底になければ意味がない。俺はたまたま"死んだほうが楽"に疑問がわいて、生きるよりも死ぬほうが怖くなっただけだ。だから、本当にそう思っている人間に対しては、生きる理由云々なんて言うだけ無駄だ。

 しかし、俺が家を出て解放されたように、実は死ぬほどの勇気なんて必要なしに、生きることへの恐怖を払拭できる場合は多々あると思う。問題はその発想・行動に至る気力がないことだ。

 本当にどうでもよくなるのだ、全部が。もっとひどくなれば、仕方ないと思えるきっかけすら必要なくなっただろう。これをやればなんとかなるんじゃないかとか、あれをやれば環境は変わるんじゃないかとか、発想がまず出てきづらいし、発想だけあったとしても行動に移す気力がない。勇気どうこうじゃない。とにかく気力がないのだ。全部がどうでもよくなっているならやっちゃえよと思うだろうが、何もできないのだ。慢性的な自暴自棄というのは、実はそんな簡単に解決できる精神状態ではない。

 何がその気力をわかすものになるのか、人によってそれは違うだろうし、自分のきっかけが何であったかも分からない。でもきっと、少しのズレと同じように、少しの体験が、肯定や承認が、それをわかせたのだろうと思う。実体験なのか、発想の転換だったのか、あるいはその両方かは分からないが、何かが必要だった。そして確かにそれは起こり、いまがある。

 

 少しのズレの積み重ねは、大きな歪みに変わり、そしてその一部は不可逆的だ。俺の中にもたくさん残っている。基本的に気力の弱い人間であるし、実はずっとどこか一部分に負荷がかかっていて、いまにそこから決壊してしまう状態なのかもしれない。ただただ、いまの自分を正当化して、なんとか自我を保っているだけかもしれない。この自分に対する疑念もまた、不可逆的歪みの一つなのだろう。

 それでも、その姿が自分なのだろうと受け入れるしかない。そうやって自分を正当化し、慰めているだけかもしれない。それでも、「それでいい」と思って行くしかない。諦めに近いのかもしれない。しかし、「でも、それでいい」を自分に対して言える、その気力だけは残せるように刻み付けた。

過去へ

 俺には幼いころの記憶がほとんどない。幼いころどころか、中高生くらいまでの記憶は、断片的にしか思い出すことができない。

 思い出そうとしてある程度思い出せるのは、高2後期~高3くらいのころからだろうか。一人暮らしを始めたのがこの時期だ。一人になってようやく、自我に目覚め始めたのだろうか。

 正直に書くと、記憶がほとんどない理由はなんとなく分かっている。ただ、どう書いても誰かのせいにしてしまうようなことしか書けない。俺にとってそれはなんとなくダサいことなので、記憶の薄い変な奴とでも思ってもらいたい。

 断片的に思い出せるエピソード、あるいは人物は、自分にとってとても大切か、忘れたいのに忘れられないかの、両極端にある。忘れたいのに忘れられないことは、まぁどうしようもないのでいいとして、ここ最近、自分にとってとても大切な部分にいる人物たちの顔が見たくなった。というわけで、そういった人たちの所在や連絡先を調べてみようと思い立った。

 ところが、思い出した一人目でいきなり手こずっている。俺が中学生くらいのときに、母親の知人のところに間借りして住んでいた青年で、俺が母親に連れられてその知人の家へ行ったときに、その青年に遊んでもらったり、本を貸してもらったり、悩みを聞いてもらったりした覚えがある。

 あるとき、彼から彼自身が書いた日記をもらった。内容としては、本当に赤裸々というか、まったく飾らないというか、こんなものを人に読ませていいのかと思うような、本物の日記だった。

 俺はそれを読んで、彼が自分と同じように悩んできたことや、いろいろな経験や思案をしてきたことを知り、親近感を覚えるとともに、どこか救われた。俺も「日記を書いてみよう!」と思い立ったが、三日坊主で終わってしまったのを覚えている。

 ところがその彼の連絡先がまったくわからない。実を言うと名前も覚えていなかったが、その貰った日記をまだ大切に持っており、そこに書かれていたのだ。現在、その名前からどうにか見つけられないかと調べている最中だ。FacebookTwitterでは見つけられなかった。しかしその知人らしき人を発見したので、コンタクトを試みている。

 実を言うとほかにもたどるルートはあるのだが、なんというか、できる限り自分の力だけで、一人で、個人で、その人と向き合ってみたいために、こういった回りくどい方法を取っている。とはいえ、どうしても無理な場合はそのルートをたどるのも吝かではない。

 最近引っ越したのだが、それが落ち着いたことも相まって、なんとなく過去の清算のようなことをしたくなったのだと思う。そしてこれは、「まぁ機会があれば」という気持ちで放っておくと、おそらくずっとそのままになってしまい、最後は文字通り死別してしまうだけだろう。鉄は熱いうちに打て、だ。

ない

 意味のない人生なのだろうか。そんなことを言うと、悲しい気持ちになる人がいるだろうな。親もそうだろうし、妻もそうだろう。それでも止められないのは、思いやりや気遣いがないからだろうか。

 頭はこれほど後悔で満ちているのに、胸は空虚だ。好き勝手に生きてきたように思う。その逆だったようにも思う。どうすれば最善だったか、考えたところで分からないことが大半だし、そもそもその一瞬一瞬は、全力が出せなかったとしても、それ自体が俺の全力だった。

 じゃあそれでいい、ともならない。そのときの自分に対して、仕方ないことだと諦めることはできても、それでよかったというわけではない。まぁ諦めるもクソも、どの記憶も過去のことで、どの感情も俺のもので、諦めるほかに納得する手段がないだけだ。

 

 意味のない人生なのだろうか。そもそも誰の人生であっても、この世にとっては意味などないのだろうとは思う。誰の命にも平等に意味も価値もないのだから、すべてのことに意味も価値もあるというようなことを、以前書いただろうか。

 別に何も変わっていない。むしろ確信は深まるばかりだが、同時に虚しさも強くなったように思う。結局のところ、自分のいまの状態がどうであるかによって、どちらに解釈や感情が傾くかどうかにすぎないのだと思う。いまはないほうだ。

 俺はなぜ俺を責めるのだろうか。そんなに悪いことを何かしたか?それに対して納得できる理由を、いつも探しているように思う。その道中で、いろいろなことに寄り道してきた。

 また一つ新しく思いついたのは、自分の中に嗜虐性があるのではないかということ。たいていの動物が多少なり持っているようには思うが、それが強いほうなのではないだろうか。正直そうは思いたくないが、ある種納得のいく説明につながる。

 自身が弱者であるために、自身で嗜虐性を満たそうとしているのではないかということ。なぜお前はそうなんだとか、消えてしまえとか死んでしまえとか、とにかく理不尽とも思える批判を誰かにぶつけたいという思いを、自分へ向けているのだ。

 これは別に、他者を傷つけたくないから、といった理由とも限らない。なぜなら、他者からはたいていの場合反撃が来るからだ。自分自身に対してであれば、反撃の心配はほぼない。自分が抱えた嗜虐性の解消を、それによる苦痛よりも重要視しているのではないだろうか。

 もしそうだとすれば、なんて卑怯なのだろうなと思う。無抵抗に等しい相手(自分)にだけ残虐になり、反撃が来そうな相手(他者)に対しては、「自分は弱い人間です」と振る舞い、弱者の盾で守りを固める。これではあまりにも……。

 でも結局答えは分からない。仮にこうだったらこういう理屈になるから、こういうふうに納得できるな、という思慮は腐るほどしてきたので、そのうちの一つになるというだけだ。もう忘れてしまったものもたくさんあるだろうな。ある種これは閃きの感覚に近い。

 

 意味のない人生なのだろうか。こうやって自分のことばかり考え、何になるのか。かといって、社会にとって自分がどうであれ、それもまた意味のないこと。でも、すべてに意味がないのであれば、すべては平等で、つまりすべてには意味があることになる。そして……そしてなんなんだ?

 俺は基本的に、あらゆることを知りたい。知らないほうがいいことなんてのは、そのあと自分がどう受け取るかに左右されるだけで、実はないんじゃないのかと思っている。でも、知らないほうが、気づかないほうが"幸せ"だっただろうということは、確かにあるように思う。

 でも、ただひたすらに、寝て、起きて、飯を食って、何かで死ぬときまで生きていくしかないんだ。それが自分の選択でも、抗えなかった流れでも、そのときまであるしかないんだ。あるという事実をただ続けることだけが、"そして"の続きなんだ。

一事が万事

 初志貫徹は難しい。決めたことをやり続けることそのものもそうだが、その初志が本当に正しいものなのかどうかも、後々変わってくる可能性があるからだ。志の方向性等に誤りがあったのであれば、貫徹してもしょうがない。

 しかし、そもそも志に正解も間違いもないような気もする。それに、正否はともかく、「決めたことをやり続ける」ということそのものに、価値や意味を見出そうとする面もある。だから、何かこだわりを持って特定のことをやり続ける人に対し、どこか魅力を感じるのだと思う。

 俺の中にも死ぬまで貫こうと決めていることがある。決めたとき、「いつか絶対に『本当にもう嫌だ、もう無理だ』と思う日が来る」と予想していたが、そりゃあもう面白いくらいにそのとおりになった。

 ただ、「そう思ってもいい。ただしやり続ける」ということも決めているので、二重の誓約になっている。そのため、自分でもかなり強固なものになっていると感じる。どうやっても二つ目の誓約は取り払えないし、またそうなることがまた苦しみの原因になるだろうということも予想はしていた。そりゃあもう面白いくらいにそのとおりになった。

 そういう意味では、俺は自分のことがよく分かっていたように思う。自分のことはよく分からないようで分かっているようで分かっているようで……ともかくマイナス面においてはだいたい当たる。

 そしてそれらに押しつぶされながら生きてきて、気づいたことがある。「たいていの人は心変わりする」ということ。浮気するとか、約束を破るとか、そういうことではなく、"自分はこうして生きていくのだ"という決意に関してだ。

 正直、そうやって心変わりしながら生きるべきだろうと思う。決意を貫き通すことに、どれほどの意味があるだろうかと思う。苦しいばかりで、決意した自分を恨むばかりで、ただ破滅に向かっているだけなのではないかという気すらしてくる。

 最善なんてその瞬間瞬間で変わってくるのに、初志貫徹に縛られ、正否も分らぬままやり続けるなんて、愚か極まりないと思う。ただそういう人間は一定数いる。というか、10年くらい前まで、一定数しかいないことに気づいていなかった。

 「以前こう言いましたが、いまはこう考えているので、あれは取り消します」そう言えたほうが、人生は幸福に近づけるに違いないと思う。人間は今を生きているのに、過去の自分の誓いに囚われてどうするのかと。

 ただ、なぜかそれには魅力を感じない。俺はどうしてだか、初志貫徹、覆水盆に返らず、吐いた唾は呑めぬ、一事が万事、etc、とにかくそういうものの中に、異形な、異質な魅力を感じ、自分はそうあらねばならないという使命感に駆られている。実に不思議だ。

 基本的に人の気持ちは変わるものだということは理解している。そのせいなのか、いつからか人にあまり期待しなくなったように思う。俺自身に対しても、俺の中の死ぬまで貫こうと決めていることを除けば、あまり期待していない。その結果、裏切られたとか、失望したとか、そういうこともあまり感じなくなった。是非もなしだ。

 しかし、人に期待しないから失望もしないのだとしても、やはりどこかダメージがあったりする。納得はできても、仕方ないなと思っても、やはりわだかまりというか、喪失というか、何かはある。"あまり"感じなくなったというだけで、"感じない"わけではないのだろうな。実は、ただ慣れたというだけなのかもしれない。

 俺の中には、自分が憧れる自分像というものがわりとはっきりとある。それはどういう像ですかと言われてもなかなか答えづらいが、こういう場面ではこうするとか、その像がする具体的な行動や判断がすぐに出せるくらいにははっきりとある。できるできないはさておき、俺はただそれを目指しているのだと思う。

 目指しているのは間違いないが、感情と一致しないときも多々ある。それこそ、人は心変わりするもので、時にはそれも必要だという考え方を、その像は持っているような気がするが、それを自分のものにするとしたときに魅力を感じるのはそちらではない。おそらく、理想像であることと魅力的であることは違うのだろうな。