いつも限界に近い

しがないバンドマンの随筆

宇宙の彼方へ

 「何もかもが嫌になる瞬間」は前触れなくくる。しかしよくよく思い返してみれば、状況やきっかけというものがあるような気もするので、実は前触れはあるのかもしれない。とはいえ、それは避けようがない。実のところ、もともとからして何もかもが嫌で、そういえばそうだったと思い出しているだけなのかもしれない。でも上記で触れたとおり、なんとなく条件はある、ような気がする。

 最近で言えば、自分が何かを"一生懸命頑張っているつもり"になっているときに、自分よりももっと頑張っていて、そして結果をしっかりと出している他者を見たときに感じた。ただこれは、いつも感じている「何もかもが嫌になる瞬間」とは違う。確かに似てはいるのだが、単なる劣等感や嫉妬、焦燥などからきた、ただなげやりになっているだけの気持ちだ。こういったことは書いているうちに気付く。だから文字に起こすのは面白い。

 純度が違うと感じる。本当のその感覚というものには、やはりきっかけや前触れなどはない気が、文章を書いているうちにしてきた。指の動くままに、打ち込んでいるので、最初と書いていることが真逆でも、これでいいのだ。

 話を戻すと、本当に突然来る。頭からストンと降りてくるような感覚に近い。その瞬間「あっもう無理だ」と"気づく"。24時間、ダモクレスの剣のように上から吊り下がっている。うん、やはりきっかけや前触れはない。書いているうちに確信に変わってきた。楽しく誰かと会話をしているときでも、頭を使わずにギターを触っているときでも、ウンコしているときでも、やつはいつでも発射準備OKなのだ。

 だからと言って、その誰かとの楽しい会話が突然鬱々とした沈黙に変わったり、エモーショナルになって曲ができたり、出かけていたウンコが引っ込むわけではない。すべては自分の頭の中で完結していることなので、自分で思う限りでは、表情や態度に変化は起きない。

 これはすごく面白いことだと思っている。この感覚に限った話ではないが、頭の中で何を考えているかなんて、自分以外の誰にも分からないし、自分も誰かの頭の中なんて分からない。なんとも当たり前のことなのだけど、たまにそれをうっかり忘れていることがある。

 理解された気になって、分かってもらった気になって、勝手に話を進めてしまったりするようなことはままある。加えて、「自分はこんなに考えているのに」といった想いを感じてしまったりする。別にその想いを感じることそれ自体は問題ないと思うが、それこそ自分の頭の中の紆余曲折など人には分からないので、その結論に至った理由を事細かに説明するか、結果が良ければ全てよしで片づけるかだ。なんだか人間関係指南みたいになってきたが、まあこれらは正直どうでもいいというか、誰でも気づくようなことを、答え合わせをするようにただ書いているだけだ。

 俺が面白いことだと思っているのは、頭の中はあくまで自由なのだということ。例えば嫌いな上司を刺し殺してもいいし、意中の人とのセックスでもいいし、世界平和を考えてもいいし、想像だろうが妄想だろうが、好きにすればいいし、それを縛ることは誰にもできない。自分自身にも。

 そういう意味では自由というより、手綱のない暴れ馬みたいなものかもしれないが、とにかく、頭の中で何を考えていようが、実際にそれを行動に移さない限り、他人から見れば静かな水面に過ぎない。妄想の中では極悪人だろうがなんだろうが、行動がその人の評価のすべてを決める。

 しかし、例えば倫理観に反する行為などの妄想は、「こんなことを考えてはいけない」という思考によってある程度抑制されたりする。これがまた面白い。そしてこの抑制自体の制御もまた難しい。別に無理して制御する必要はないのだが、「自分はどこまで倫理に反したことを想像できるのか?」という遊びをする際には邪魔になることがある。まあ後味悪いし、何一つスッキリもしないのでお勧めはしないのだが、自分の想像力の限界のようなものがどこにあるのかを確かめたくなるときにやったりする。

 これらを押さえつける抑制まで含めて、自然な思考なのだと思う。ただ、思考を自由に走らせると問題も起きる。先日書いた、思い出したくないことを思い出してしまうことだ。こればかりは本当にどうしようもない。芋づる式にどんどん出てきて、思考のほとんどを支配し、頭の中はそれらだけでいっぱいになる。これも暴れ馬たる所以だ。こうなるともう考えるのを止めて、チンチンヘリコプターとかを想像して、脳機能を宇宙の彼方へ飛ばす。

 しかし、時にはそれらの記憶に対して、じっくりと思考を巡らせることもある。たださすがにしんどいので、一人のときにしかできない。周囲の人へ気づかいする必要がある環境では、静かな水面が揺れずとも、濁っていくのが見えてしまうので。覚悟さえ決めてしまえば、後味が悪くとも面白い発見があったかもしれない。覚えていないが。

ともすれば

 あまりにも眠れないので、こういう時のための暇つぶしを用意しておこうと思い立ち、ブログを開設。気が向いたときにしか書かない。1週間に1回くらいかもしれないし、1年に1回くらいかもしれない。

 今は無理やりにでも横になるべきなのかもしれないけれど、「逆にキツイ」とか適当な言い訳で頭をだまして、もう明日の鹿児島出発まで起きていようと思う。

 karteのホームページのブログを全然更新していないし、そっちでやればいいんじゃねーかという気もするけれど、バンドとか音楽とは全く関係のないこと、立場で文章を書きたくなる機会が時折あるので、こういった形にした。加えて、あそこで文章を書くとメタを意識してしまって、自由に書けない。karteのボーカル立山秀大という縛りが邪魔で仕方がなかった。

 ホームページのブログは無くしていい気もする。更新していないし、今は存在価値があまり見当たらない。メンバーのことが知りたいなら、ツイッターアカウントとかで事足りているのではなかろうか。でもたぶん、それなりに楽しみにしている人もいると思う。ただ、俺が思っていた以上に、文章を書きたくなる人間って、実はそんなにいないようだ。まあ、この辺の処理も落ち着いたらやるだろう。

 とかなんとか前置きしつつも、バンド関連の話は多くなると思う。まあとにかく、自由に文章を書ける環境が欲しかったという話。文章を書くだけなら、別にチラシの裏でもなんでもいいのだろうけれど、俺は自己顕示欲が強い人間なのでこうなった。

 コメントは誰でも自由にできるので、なんでも書いていい。誹謗中傷でもいいけれど、むかついたらそのコメントを消すかもしれないし、書き込みを限定するかもしれない。「余はこのブログの王であるぞ」くらいの振る舞いと対処で行こうと思っている。

 質問とか書いてほしいテーマとかの書き込みがあったら、それについてブログ記事で返答するかもしれない。しないかもしれないけど。とにかく気が向いたら書く。

 

 今回のツアーで時折利用しているネットカフェなるもの、なかなかいい。個人部屋が借りれたときに限るけれど、狭いスペースの中で背中を丸めているこの環境は、なんだかわくわくする。小さいころに秘密基地を作って遊んでいたことを思い出す。

 小さいころからこういう狭いスペースが大好きで、一番古い記憶では、親についていった懇親会だかなにかで用意された座布団を箱のように組み立てて、そこに収まっていた。はっきりとは覚えていないが、この間親(のような立場の人)に言われて思い出した。

 押入れも大好きだった。豆電球と電池をつないで、押入れの中に照明を作って、何をするでもなく遊んでいた。多分何かしていたのだろうけど、思い出せない。レゴでも使って遊んでいたのだろうと思う。

 幼いころのことを俺はほとんど思い出せない。断片的にでも思い出せるのは、せいぜい就学後で、それ以前の記憶は、人から言われた情報をつなげて、あたかも自分の中に思い出があるかのように振る舞っているだけのような気がする。「これは自分の記憶だ」というものが一つもないわけではないが、本当に少ない。

 就学後の記憶も本当に断片的だ。とはいえ、実はみんなそんなもんなのではないかという気もする。たまたま誰かが覚えていた、自分に関する過去の情報を聞いて、それに関する小さく断片的な記憶をつなげているだけで、その時の光景とか状況などは、実は脳が適当に補完しているだけだろう。まあ、その場において重要なのは、記憶が鮮明であるかどうかではなく、話題の共有ができるかどうかなのだから、どうでもいいことなのだけれど。

 それでもやっぱり、俺は人と比べて昔のことを覚えていない。しかし不思議なことに、忘れたいことほどよく覚えている。ことあるごとにフラッシュバックする。もしかするとそれらが原因になっているのかもしれない。

 想像に過ぎないのだけれど、なぜ忘れたいのに忘れられないといった状況になるのかと考えて、一つの結論に行き着いた。簡単な話だけれど、"思い出す"からだと思う。

 シロクマ効果というものがある。簡単に説明すると、「シロクマのことを考えないでね」と言われた人ほどシロクマのことを考えてしまうというもの。シロクマが映ってるビデオか何かを使ってやった実験ででた結果だから、こういう名前になったんだった気がする。

 つまり、忘れたいことを忘れたいこととして認識していればいるほどに、それが記憶に焼き付いてはがれないということ。そしてそれは、習慣化してしまう。加えて気づいたのが、「それらを思い出すたびに、その記憶の鮮度リセットされる」ということ。

 当たり前だけれど、その出来事から日数が近ければ近いほど思い出しやすい。しかし、思い出すという作業を行うことで、その思い出した地点からの日数にリセットされるのではなかろうかということ。

 俺の場合は、忘れたいこと、思い出したくないことが頭の中に浮かんでこない日は1日もないので、毎日更新される。そしてそれらの記憶は、頭の中で「忘れたい系の記憶」という関連付けされているようで、何か1つでも思い出すと、芋づる式にどんどん別のことも思い出す。こうやって、忘れたい記憶は忘れられない記憶に保たれるのではないかなと思っている。

 これが日常、習慣なので、もはやどうすることもできないし、どうにかしようという気もない。しかし、何かに集中しているときはこれらから抜け出せる場合が多い。集中している間も、時折「よっ!」と顔をのぞかせてくることがあるが、そうでない時よりも頻度はずっと少ない。それが救いだ。

 あと、酒を飲んでいるときも多少マシになる。しかし場合によっては、思い出した時の落ち込み具合が悪化することもあるので、調整は難しい。ただ酔っているときは、その落ち込んでいる自分の状態に対する抵抗感も薄れるので、飲んで楽になったような感覚は、基本的に得られる。ともすればこうやってアル中は生み出されるのだな。