いつも限界に近い

しがないバンドマンの随筆

捻くれ者の生き方は

 俺に「憧れの存在だ」と言ってくれる人が稀にいる。嬉しくないわけではないが、一言ではなんとも言い表しづらい感情になる。

 「そんなことない。俺はとんでもないクズだ。ほら見てくれ!」と、以前Twitterか何かで見たような、こんな気持になる。実際にその場でクズエピソードを羅列するわけではないが、そうしたいような、その幻想をぶち壊したいような、そんな衝動に駆られる。

 俺は承認欲求が強いように思う。誰かに認めてもらいたくて、自分でなければならない何かが欲しくて、今を生きているような気がする。だから、憧れてもらうなんてことは、それが叶えられた瞬間でもあるはずなのに。

 ただ素直じゃないだけなのだろうか。その言葉をそのまま受け取れずにいるだけなのだろうか。確かに、全部は本当じゃないかもしれない。でも、きっと本当も十分に含まれているだろう。とすれば、「誰かに認めてもらいたい」のではなく、自分自身が自分自身に対して認められて然るべきだという評価を下してもらいたい、ということなのかもしれない。

 結局、自分を救うことができるのは自分だけだなとはよく思う。俺は自分の中の絶対評価に縛られて、人からの評価を聞いているようで聞いていないのだろうか。とんでもなく失礼な話なのだけど、多分それが事実だ。きっと、本当にそうなのだなと、自分を納得せざるを得ない状況にまで持って行けない限り、これから逃げることはできない。あるいは、そういう状況にまで持って行っても、今度は評価のラインを引き上げ始めるかもしれない。もしそうなら、救われる日は来ない。

 でも、それもまたよし。俺は、満足できなくても、納得できればいいと思っている。まぁ正直、そうするしかないという面もある。ただ、間違っているとも思わない。仮に間違っていると言われても、それこそその自分の中の絶対評価が、俺をブレないように縛り付けてくれるはずだ。

 しかし、その「憧れ」をぶち壊したくなる感情に関してはよく分からない。実際にぶち壊すわけではないので、別にどうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど、その気持ちは一体どこから来るのか。思われる分には何一つ損をしないはずなのに。

 重荷のように感じてしまうのだろうか。あるいは、蔑まれることを望むマゾなのか。それとも他の何かだろうか。今思い当たるとすれば、それこそ、自分の中の絶対評価に縛られている可能性がここでもまた出てくる。

 つまり、そのラインに達していない自分は、評価されるべきではないという考えだ。これは感情の問題なので理屈は通じない。客観的にどうであるかは、そこでは問題にならない。仮にそうだとすると、恥を感じるのも納得できる。それは照れとは違う。

 まだいろいろ続けれそうだが、疲れたからもうやめる。