いつも限界に近い

しがないバンドマンの随筆

響命

 今年10月10日にリリースしたアルバム「響命」は、「命」がテーマになっている。俺が作るほとんどの曲は、ある程度「生」と「死」のテーマをはらんでいることが多いが、今回はそれをメインに置いてアルバムを作った。

 アルバムに入っている曲の中に、一貫させている一つの思想がある。それは、「命そのものや、それによって生み出されたものに、意味や価値の有り無しはなく、善悪もない」ということ。そして、「自分はただ、生きようという体の働き、本能によって生きている」ということ。

 なんだか小難しいけれど、意外とシンプルな話でもある。生死を決めるのは、その価値や善悪ではなく、肉体に生きようとする本能が残っているかどうかだ。それらを失って死へ向かうことですら、種全体の視点から見れば、生へ向かっているように俺は思う。個人の視点に縛られなければ、この世に生を受けた時点で、命はひたすら生に向かっている。

 そして重要なのは、基本的に人は生を美化する。死を美化する側面もあるが、それも結局のところ、強烈に生を感じるエピソードには、死が絡んでいるからだと思う。「"命は素晴らしい"と思えない」という考えも、おそらくそのほとんどは「本当は"素晴らしい"と感じるべきであるのに」という本能に即したものが背景にあるからだろう。本当に超えていたとしても、多様性の側面から見れば、それすらも生に向かっている。結局のところ、生きていても、あるいは死んでしまったとしても、この世に生を受けた時点で、生に向かっていることからは逃げようがない。

 じゃあその美化が善いか悪いかといえば、それは文頭の「意味や価値の有り無しや、善悪はない」に戻る。簡単にまとめれば、「いろいろあるけど、本能に従っていけばいいんじゃないの」ということだ。

 ただ俺は基本的に、俺が作詞した曲を聴く人には生きていてほしいなと思っている。だから「響命」になった。そもそも、生き死にで頭を悩ませるような人は、自身の命に意味や価値を見出せないことがその大きな要因の一つになっていることが多い。だから「腹が減るなら本能に従って飯を食え」「腹減らなくても"あ、食べなきゃ"と思ったら、それも本能だから飯を食え」ということを伝えたい。意味や価値はすべての人間や生き物に等しく「無い」と思っている。だからそれで悩む必要もない。

 とはいえ、はいわかりましたといかないのが難しいところ。意味や価値などないと書きつつ、意味や価値を見出すために創作活動をやっているわけだし、言っていることとやっていることが大いに矛盾している。でも、そこが面白いところでもある。それに、それこそが「生きている」と実感させ、本能に加えて自分の意志までが生へ向かうことにつながる。

 まぁそれすらも意味や価値のないことではあるのだが、意味や価値を見出そうとし、よりよく生きたい、よりよく死にたいと思うこともまた、本能なのだと思う。意味や価値がないから何もしないのではない。意味や価値が重要なのではなく、意味があろうがなかろうが「やりたいなら、やればいい」、それだけで十分だと思う。ちなみに、倫理観も本能の副産物であるので、そのあたりの考えは面倒なので省く。補完してほしい。

 

 そんなこんなでアルバムの製作中だったのだが、その期間中に我が家の愛猫が逝った。その出来事がアルバムに絡んでくる話もあるが、それはまた後日。