いつも限界に近い

しがないバンドマンの随筆

おたふく

 日本では一般的に、他人と政治の話は避ける傾向にある。日本人全体が自分と同じとは思わないが、自分はそうした話をするのに向いていないなと感じる。

 基本的に人は自分が信じたいことを信じるし、似た思想を持った人と集まろうとするし、親近感を感じる。そして、多くの場合自分が正しいと思っており、自分と思想が違う人間は「わかっていない」と考えている。俺もそうなのだろうなと思う。

 誰だって自分は概ね正しいだろうと考えているし、そう信じたい。自分の思想が実は偏ったものであるとはあまり思わない。自分はある程度客観的に見て、物事を判断しているのだと。しかし、ほとんどの人はどこかしら偏っている。むしろある程度偏るからこそ、どこを支持するとか批判するとかができるとも言える。

 そして思想の違う者同士が議論するとどうなるかというと、たいていは衝突するか、一方的な投げかけになる。自分が正しいと思っているのだから、なんとかして相手を説き伏せようとする。相手の意見を尊重しているつもりでも、実のところ「わかっていないからそう考えているのだ」と、ほとんど耳に入っていなかったりする。

 加えて厄介なのは、おそらくはどちらも間違いではないことなのだと思う。だから、自分は正しいとより信じることができ、それゆえに人に対して「間違っている」だとか「お前のようなやつがいるから駄目なんだ」とか言えてしまう。普段は「いろんな人がいていいよね」といったように話している人でも、この状態では高圧的になりやすい。

 話者がどんな生活をして、どんな人たちと関わり、どこでどんな情報を得ているのか、その本人にしかわからない様々な要因を経て出てくる思想や行動に対し、それを言ってしまったら、もうただの水掛け論にしかならない。そして、政治の話はそうなりやすい。

 そして、どの政党もどんな思想も叩けばホコリが出るし弱点がある。そのため、いいところの提示ではなく、悪いところのぶつけ合いにもなりやすい。そしてその悪いところを持つ政党を支持する人間に対して、お互いに自分が正しいと思っているので、お互いに怒りや苛立ちを覚えたりする。お前はこんな悪魔たちを支持するのかと、お前はこんな悪魔たちがリーダーになったら恐ろしくないのかと。その結果、相手を傷つけるような言葉、馬鹿にするような言葉を発してしまったりしやすくなる。

 そのあたりの背景があって、先人たちも様々なトラブルに見舞われ、タブーのような空気が作られたのだろうか。別にどちらも嘘をついているつもりはないだろう。自分が得た本当だと信じる情報をもと話すのだから、むしろ親切心みたいなものかもしれない。そもそもどちらも間違いではない場合がほとんどなので(理想や主義が違うのだから当然そうなる)、水掛け論以上のものになりづらいのだと思う。そもそも議論慣れしていないことも、そうなりやすい原因だろうと思う。

 自分が信じたいこと以外のことを信じることや、間違っていると考えていたことを、「実はそれも一つの正解なのかもしれない」と受け入れることは本当に難しい。そしていつだって、人は自分が「実はそれも一つの正解なのかもしれない」と"受け入れさせる"ほうだと思っている。俺も無意識的にはそう思っているのだろうな。

 最近身近な例で言えば、新型コロナウイルスのワクチン接種に関しても、推奨派と反対派がいるが、おそらくお互いに「わかっていない」と考えているだろう。そしてお互いに「お前みたいなやつがいるから駄目なんだ」と、「なぜこれだけ言ってもわからないのだ」と、お互いに自分が正しいと信じているし、自分こそが"気づいている者"なのだと信じている。

 しかし、自分が正しいと信じるのも当然だ。そうしなければ人は何も行動を起こせなくなるからだ。だから、自分が正しいと信じること自体は何もおかしなことではない。しかし、それがありあまって行き過ぎた言動をしてしまうことのないよう、気を付けるべきだとは思う。

 俺は人の顔色をうかがって生きてきたので、人の怒りや苛立ちに敏感だと思っている。そして俺自身も、気の長いふりをするのは得意だけど、気が短いほうだと思う。だから、何かしらの議論をしていて相手の苛立ちを察知すると、もうほぼ「うん、そうかもね」みたいなことしか言えなくなる。自分まで苛立ち始めたら、ただの口喧嘩になってしまうから、なんとかそれを避けようとする。何より、相手の怒りや苛立ちに触れることに極端におびえる。

 そして、政治がからむ話はそうなりやすいので、俺は向いていないだろうなと感じる。もちろん自分が先に苛立ち始める場合もあるだろう。しかし自分でそれに気づいたとき、非常に後ろ暗く、恥ずかしい気持ちになる。直接的でない言い方で、相手の思想を探り合うようなやり取りも嫌いだ。とにかく、それらにまつわる感情の動きが非常に大きなストレスになる。

 積極的に参加したい人からすれば、俺のようなやつには苛立つだろうなと思う。それこそ「お前のようなやつがいるから」だ。怯えて議論を避けてばかりでは何も良くならないぞと。

 そのとおりだと思う。だからせめて、自分が気づく範囲では、できるだけ偏りがないよう、気になったことは多少調べるなどしてはいる。でも、偏りは生じていると思う。そして自分の思考を読み解くとその偏り見えてくるので、もはや何が正しいのか、信じるべきなのか、わからなくなるという部分もある。

 しかし、そういった背景を何も知らずに、「政治のことはよくわからない」とだけ聞けば、苛立つ人も、馬鹿にする人もいるだろう。しかし、考えていることやその背景を細かく説明するのは難しい。人を尊重するには、そこに至る背景を読み取る想像力も必要だなと思う。

 仮に本当に何も考えていないからわからないのだとしても、その人にとってそのジャンルの優先度が低いというだけに過ぎない。もちろん、政治はすべてのことに関わるといっても過言ではないが、自分のために、世のため人のために、やったほうがいいこと、考えたほうがいいこと、やらないほうがいいのにやってしまうことなど、誰にでも、いくらでもあるのだ。それらのこと持ち出して、揚げ足の取り合いになってしまえばおしまいだ。

 俺はほぼ無意識的に、テレビから得られる情報だけを信じている人を、どこか馬鹿にしているように思う。「ネットにこそ真実はある」とまでは思わないが、情報の母数が違いすぎると考えている。しかしこれも偏りで、結局のところ目に留まりやすい位置にある、手の届きやすい位置にある情報を信じているだけなのだ。だから、人から話を聞くときも、「その人の目に留まりやすい位置にある、手の届きやすい位置にある情報がそれなのだな」としか思わないし、自分が話をする場合も、その前提でしている。

 であるにもかかわらず、無意識的にどこか馬鹿にしているのだ。これはさすがに自分だけだとは思えない。誰にだってそういったところがあるはずだ。それは自分こそが正しいと、自分こそが気づいている側なのだと信じているからだ。

 いろいろな場所から情報を取り入れれば偏らないかというと、そういうわけでもない。結局「テレビではこう言っているけど、俺がネットで調べたところこうだったから、テレビの言っていることは間違っている」か、「ネットではこう書いてあったけど、俺がテレビで聞いたところこうだったから、ネットで書いてあることは間違っている」となるだけだ。

 必ずしも調べれば、多角的な情報が多くなれば真実がわかるというわけではない(そもそもどれも正しい場合がある)。人は自分の思想を肯定するものを受け入れやすくできている。そのため、調べれば調べるほどに、より濃く染まってしまうこともある。

 もはや正否を放り投げているとも言えるかもしれない。ここまであれもこれも偏りだと言い始めたら、では自分の意思とは何であるか、というところにまで行ってしまう。だから結局、自分の信じていることを信じるしかない。ただ、相手もそうなのだということは理解しなければならない。

 嘘やデマを信じている場合もあるかもしれない。しかし、結局それも同じことだ。自分の信じるほうが嘘やデマでないと本当に言い切れるだろうか。相手もそうなのだ。「嘘やデマを信じているから、教えてあげなきゃ」とお互いに思っているかもしれない。だから絶対に、どれだけ自分が正しいと確信していたとしても、馬鹿にしてはいけない。

 ソースの有無や、その信頼性も大きくからんでくると思う。しかし、いつどこで何を見てそう信じるに至ったかを探し出すのもなかなか難しい。加えて、書籍になっていれば本当か、国の代表者が言えば本当か、専門家が言えば本当か、やはりそれもわからない。もう何度目だろうか、結局自分の信じていることを信じるしかない。