いつも限界に近い

しがないバンドマンの随筆

ない

 意味のない人生なのだろうか。そんなことを言うと、悲しい気持ちになる人がいるだろうな。親もそうだろうし、妻もそうだろう。それでも止められないのは、思いやりや気遣いがないからだろうか。

 頭はこれほど後悔で満ちているのに、胸は空虚だ。好き勝手に生きてきたように思う。その逆だったようにも思う。どうすれば最善だったか、考えたところで分からないことが大半だし、そもそもその一瞬一瞬は、全力が出せなかったとしても、それ自体が俺の全力だった。

 じゃあそれでいい、ともならない。そのときの自分に対して、仕方ないことだと諦めることはできても、それでよかったというわけではない。まぁ諦めるもクソも、どの記憶も過去のことで、どの感情も俺のもので、諦めるほかに納得する手段がないだけだ。

 

 意味のない人生なのだろうか。そもそも誰の人生であっても、この世にとっては意味などないのだろうとは思う。誰の命にも平等に意味も価値もないのだから、すべてのことに意味も価値もあるというようなことを、以前書いただろうか。

 別に何も変わっていない。むしろ確信は深まるばかりだが、同時に虚しさも強くなったように思う。結局のところ、自分のいまの状態がどうであるかによって、どちらに解釈や感情が傾くかどうかにすぎないのだと思う。いまはないほうだ。

 俺はなぜ俺を責めるのだろうか。そんなに悪いことを何かしたか?それに対して納得できる理由を、いつも探しているように思う。その道中で、いろいろなことに寄り道してきた。

 また一つ新しく思いついたのは、自分の中に嗜虐性があるのではないかということ。たいていの動物が多少なり持っているようには思うが、それが強いほうなのではないだろうか。正直そうは思いたくないが、ある種納得のいく説明につながる。

 自身が弱者であるために、自身で嗜虐性を満たそうとしているのではないかということ。なぜお前はそうなんだとか、消えてしまえとか死んでしまえとか、とにかく理不尽とも思える批判を誰かにぶつけたいという思いを、自分へ向けているのだ。

 これは別に、他者を傷つけたくないから、といった理由とも限らない。なぜなら、他者からはたいていの場合反撃が来るからだ。自分自身に対してであれば、反撃の心配はほぼない。自分が抱えた嗜虐性の解消を、それによる苦痛よりも重要視しているのではないだろうか。

 もしそうだとすれば、なんて卑怯なのだろうなと思う。無抵抗に等しい相手(自分)にだけ残虐になり、反撃が来そうな相手(他者)に対しては、「自分は弱い人間です」と振る舞い、弱者の盾で守りを固める。これではあまりにも……。

 でも結局答えは分からない。仮にこうだったらこういう理屈になるから、こういうふうに納得できるな、という思慮は腐るほどしてきたので、そのうちの一つになるというだけだ。もう忘れてしまったものもたくさんあるだろうな。ある種これは閃きの感覚に近い。

 

 意味のない人生なのだろうか。こうやって自分のことばかり考え、何になるのか。かといって、社会にとって自分がどうであれ、それもまた意味のないこと。でも、すべてに意味がないのであれば、すべては平等で、つまりすべてには意味があることになる。そして……そしてなんなんだ?

 俺は基本的に、あらゆることを知りたい。知らないほうがいいことなんてのは、そのあと自分がどう受け取るかに左右されるだけで、実はないんじゃないのかと思っている。でも、知らないほうが、気づかないほうが"幸せ"だっただろうということは、確かにあるように思う。

 でも、ただひたすらに、寝て、起きて、飯を食って、何かで死ぬときまで生きていくしかないんだ。それが自分の選択でも、抗えなかった流れでも、そのときまであるしかないんだ。あるという事実をただ続けることだけが、"そして"の続きなんだ。