いつも限界に近い

しがないバンドマンの随筆

一事が万事

 初志貫徹は難しい。決めたことをやり続けることそのものもそうだが、その初志が本当に正しいものなのかどうかも、後々変わってくる可能性があるからだ。志の方向性等に誤りがあったのであれば、貫徹してもしょうがない。

 しかし、そもそも志に正解も間違いもないような気もする。それに、正否はともかく、「決めたことをやり続ける」ということそのものに、価値や意味を見出そうとする面もある。だから、何かこだわりを持って特定のことをやり続ける人に対し、どこか魅力を感じるのだと思う。

 俺の中にも死ぬまで貫こうと決めていることがある。決めたとき、「いつか絶対に『本当にもう嫌だ、もう無理だ』と思う日が来る」と予想していたが、そりゃあもう面白いくらいにそのとおりになった。

 ただ、「そう思ってもいい。ただしやり続ける」ということも決めているので、二重の誓約になっている。そのため、自分でもかなり強固なものになっていると感じる。どうやっても二つ目の誓約は取り払えないし、またそうなることがまた苦しみの原因になるだろうということも予想はしていた。そりゃあもう面白いくらいにそのとおりになった。

 そういう意味では、俺は自分のことがよく分かっていたように思う。自分のことはよく分からないようで分かっているようで分かっているようで……ともかくマイナス面においてはだいたい当たる。

 そしてそれらに押しつぶされながら生きてきて、気づいたことがある。「たいていの人は心変わりする」ということ。浮気するとか、約束を破るとか、そういうことではなく、"自分はこうして生きていくのだ"という決意に関してだ。

 正直、そうやって心変わりしながら生きるべきだろうと思う。決意を貫き通すことに、どれほどの意味があるだろうかと思う。苦しいばかりで、決意した自分を恨むばかりで、ただ破滅に向かっているだけなのではないかという気すらしてくる。

 最善なんてその瞬間瞬間で変わってくるのに、初志貫徹に縛られ、正否も分らぬままやり続けるなんて、愚か極まりないと思う。ただそういう人間は一定数いる。というか、10年くらい前まで、一定数しかいないことに気づいていなかった。

 「以前こう言いましたが、いまはこう考えているので、あれは取り消します」そう言えたほうが、人生は幸福に近づけるに違いないと思う。人間は今を生きているのに、過去の自分の誓いに囚われてどうするのかと。

 ただ、なぜかそれには魅力を感じない。俺はどうしてだか、初志貫徹、覆水盆に返らず、吐いた唾は呑めぬ、一事が万事、etc、とにかくそういうものの中に、異形な、異質な魅力を感じ、自分はそうあらねばならないという使命感に駆られている。実に不思議だ。

 基本的に人の気持ちは変わるものだということは理解している。そのせいなのか、いつからか人にあまり期待しなくなったように思う。俺自身に対しても、俺の中の死ぬまで貫こうと決めていることを除けば、あまり期待していない。その結果、裏切られたとか、失望したとか、そういうこともあまり感じなくなった。是非もなしだ。

 しかし、人に期待しないから失望もしないのだとしても、やはりどこかダメージがあったりする。納得はできても、仕方ないなと思っても、やはりわだかまりというか、喪失というか、何かはある。"あまり"感じなくなったというだけで、"感じない"わけではないのだろうな。実は、ただ慣れたというだけなのかもしれない。

 俺の中には、自分が憧れる自分像というものがわりとはっきりとある。それはどういう像ですかと言われてもなかなか答えづらいが、こういう場面ではこうするとか、その像がする具体的な行動や判断がすぐに出せるくらいにははっきりとある。できるできないはさておき、俺はただそれを目指しているのだと思う。

 目指しているのは間違いないが、感情と一致しないときも多々ある。それこそ、人は心変わりするもので、時にはそれも必要だという考え方を、その像は持っているような気がするが、それを自分のものにするとしたときに魅力を感じるのはそちらではない。おそらく、理想像であることと魅力的であることは違うのだろうな。